ヨーロッパの旅

2012年08月26日

首都オスロまで

 
移動が続き、そして夜は街を徘徊して飲んだくれ、Blog更新が途絶えました。いくつかのメディアから依頼されているゲラチェックや最終の著者校正も遅れていますが、できるだけ時間をつくって期限には間に合わせますので、もうしばらくお待ちください。


さて、ここまでの旅程を報告します。24日(金)はノルウェー国鉄で午後にベルゲンを発ち、ボスという街へ。そこから路線バスに乗り換えて、グドヴァンゲンを目指しました。グドヴァンゲンからはフェリーに乗って、世界遺産のネーロイフィヨルドを散策し、フロムという山間の街に到着したのは18時10分。4年前の春にはここで誕生日を迎え、ホテルに滞在していた人たちに祝ってもらった、私にとっては思い出のさくさん詰まった街です。

フロムで1泊し、翌25日(土)はフロム鉄道〔写真〕での旅で始まりました。車窓から美しい雄大な景色を眺めながら、ミューダールへ。そこからノルウェー国鉄に乗り換えて4時間半ゆられ、午後2時32分に首都オスロに入りました。

オスロではホテルにチェックイン後、さっそく市内へ。中央駅から続く歩行者天国や市内の広場で、ハーバー沿いに並ぶカフェで、行く夏を惜しむ地元ノルウェーの大勢の人たちが週末の午後を楽しんでいました。

S.Akimoto at 14:54|Permalink

2012年08月24日

三角屋根の家々

 
コペンハーゲンを21時に発つスカンジナビア航空2870便で、昨夜遅くにベルゲンに入りました。この街に来たのは4年ぶりですが、都会の喧噪とは無縁という印象は前回来たときとまったく変わりません。ここが本当にノルウェーで2番目の大きな都市なの? ついそう呟きたくなるような、小ぢんまりした居心地のいい街です。


朝5時に目が覚めて、ホテルでしばらく書き物をしてから、ベルゲン港を囲む街の中心部までカメラをもって散歩に出ました。東京はあんなに暑かったのに、8月下旬の北欧は上着がないと肌寒く、まるでエアコンの効いた部屋で過ごしているようです。

人口約24万人のベルゲンは、12〜13世紀にはノルウェーの首都でした。16世紀半ばまで干しダラの輸出が盛んで、ヨーロッパでも有数の商都だったといいます。その名残を見せるのが、写真のブリッゲン地区。三角屋根が特徴の色とりどりの木造家屋が並び、古い建物は大きく傾きながらも伝統技法で修復が繰り返されてきました。1979年には世界文化遺産に登録され、現在も土産物屋やお洒落なブティックとして利用されています。

海沿いに面した通りから一歩路地を入ると、中世にタイムスリップしたような街並みが広がり、古い造りの陶器の店などが軒を連ねます。朝早かったので、どの店もまだオープン前でした。これからホテルで朝食をとって、また出かけてみようと思います。

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2012年08月23日

4発機で北欧へ

 
今日これから、エアバスA340に乗ります。久しぶりに。A340は中距離路線を中心に世界の空で活躍中のA330の姉妹機です。この二つの機種の違いは、A330が左右の主翼にエンジンを1基ずつ装備した“双発機”であるのに対し、A340は左右に2基ずつを搭載した“4発機”であること。A340は4基のエンジンを駆使することで、かつて旅客機としては初めて1万4,000キロ級の航続距離性能を手にしました。


しかし最近はエンジンそのものが進化し、従来は3基か4基が必要だった大型機でも2基で必要な推力が得られるようになりました。エンジンの数が多ければそれだけ燃費や整備コストがかさんでしまうことから、双発機を主力に据えるエアラインも年々増加。そうした時代の流れもあるのでしょう。エアバスは2011年11月、A340の生産打ち切りを発表しました。

これで現存する4発機は、“ジャンボ機”ボーイング747とエアバスのオール2階建て機A380だけに。4発機ファンとしては、淋しいかぎりです。パイロットの中には「操縦していても、やっぱり4発機は安心感がありますよね」と話す人も少なくありません。

しかし生産は打ち切りになっても、世界の空では現在も300機を超えるA340が飛んでいます。運航を続ける1社が、私がいまからデンマークのコペンハーゲンまでのフライトで利用するスカンジナビア航空〔写真〕。「北欧は避暑ですか?」と聞かれそうですが、いいえ、仕事です(笑)。今日はまずコペンハーゲンで乗り継いで、ノルウェー第二の都市ベルゲンへ。そこを拠点にフロム、オスロなどを回り、来週にはコペンハーゲンに戻って、街や空港を取材して帰国する予定です。

S.Akimoto at 07:18|Permalink

2012年05月10日

ドイツの観光名所

 
ドイツ観光局が外国人旅行者を対象に2012年2月に実施した「ドイツの名所トップ100」を決めるアンケート調査の結果が発表されました。約5,500人の回答者が選んだトップ100を見ると、目立つのはやはり世界遺産。ドイツにある36の世界遺産のうち、22がランクインしています。その中で堂々第1位にランクされたのが、写真のハイデルベルク城でした。


ハイデルベルクはドイツ最古の大学がある歴史ある街で、朽ち果てた古城が訪れる人たちを中世ロマンの世界へと誘います。2009年4月に私が訪ねたとき、ちょうど韓国の旅行雑誌から取材で来ていたキムさんという若い女性記者と知り合い、半日ほど行動を共にして街を撮影して歩きました。

キムさんは「買ったばかり」という新しいニコンを首から下げていました。いっしょに来るはずだったカメラマンの予定が変わり、急きょ単身での取材になったらしい。行く先々で彼女は懸命にシャッターを押していましたが、帰国後にソウルから「どれもうまく撮れていなかった」と電話で私に泣きついてきて、いくつか写真を送ってやったことを覚えています。私は写真を本職にしているわけではないから、自由に使っていいし、クレジットも必要ない。そう伝えたのですが、後日届いた雑誌には、ハイデルベルク旅行記のページを飾っていた5点ほどの写真の一つひとつにちゃんと私の名前が記されていました。そのときの1枚が、上の写真──ネッカー川を下るフェリーから撮ったハイデルベルク城です。

この古城が「ドイツの名所トップ100」の第1位になったと聞き、当時のことが頭によみがえって、懐かしさが込み上げてきました。ちょっぴりキュートだったあの韓国の新米記者、いまも元気に旅の取材を続けているかなあ。

S.Akimoto at 00:03|Permalink

2012年04月24日

観光名所をひと巡り

 
ローマ市内を効率よくまわるなら、市が運営する観光バス「110 open」を利用するといい。イタリア政府観光局の知人に出発前にそう教えられ、テルミニ駅前の停留所から2階建ての赤いオープンデッキ・バスに乗り込みました。


10分間隔で運行され、9カ所の停留所に止まりながら観光名所をたどるこのバスは、乗りっぱなしでも1周に約2時間かかります。ですが、48時間有効のチケット(18ユーロ)を買うと、どの停留所でも乗り降りが自由。停留所で待っていれば、すぐに次のバスがやってきます。結局私は、バスに揺られて半日遊んできました。

テルミニ駅前を出発すると、やがて前方にコロッセオが見えてきます〔写真〕。まずはそこで下車して、撮影がてら内部を見学したあとは、次なる目的地ベネツィア広場へ。ベネツィア広場からは徒歩で周辺を散策し、予約しておいたローマ料理レストランでランチをとりました。「IL GIARDINO ROMANO」という名のその老舗レストランは、成田からローマへのアリタリア-イタリア航空AZ785便の機内で日本人クルーが「アーティチョークが最高においしいから」とすすめてくれたもの。先ほどfacebookのPhoto Essayに写真をアップしましたので、ご参照ください。

その後も、ナヴォーナ広場やサン・ピエトロ大聖堂、トレヴィの泉、スペイン広場などの観光名所をぐるっとひと巡り。有名な観光スポットに近づくにつれ、道路はクルマが数珠つなぎになってなかなか前に進みません。ですが、もともと私は大の乗り物好きです。2階のオープンデッキから街を見下ろすアングルが快適で、私には渋滞さえもが心地よく思えました。

S.Akimoto at 11:57|Permalink

2012年04月22日

ローマへ

 
何年ぶりでしょうか。前にふらっと降り立ったのは、かれこれもう15年前──いや、20年近く前? いずれにしても、うまく思い出せないほど昔です。今日これから、久しぶりにイタリア・ローマへ向かうことになりました。成田線で運航するボーイング777-200に新しいシートを導入したアリタリア-イタリア航空を利用して。


ゴールデンウィーク前だからそれほど混んでいないだろうと思ったら、カウンターのスタッフが「予約はほぼ満席」と言っていました。いま成田空港第1ターミナルの搭乗ゲート前にいますが、なるほど、かなりの人、人、人──。そのほとんどが、観光やレジャーでの渡航のようです。“ネットワークキャリア”を目指す他のヨーロッパ系エアラインでは、乗客の6、7割がそれぞれのハブ空港で乗り継いでヨーロッパの別の都市に向かうのに対し、アリタリア-イタリア航空の日本からの乗客はほぼ8割がイタリア1カ国だけを目的地としています。ファッションやデザイン、アート、音楽、グルメなどを楽しむことを目的に。

そういう人たちにとって、飛行機に乗った瞬間からイタリアを満喫できるアリタリア-イタリア航空は大人気。目の前に、出発準備を進める機体の尾翼が見えます〔写真〕。国旗カラーである緑と赤をベースに、尾翼の形に合わせて同エアラインの頭文字「A」を重ねたロゴマークは、多くのファンに支持されてきました。ビビッドなグリーンの制服に身を包んだ陽気な客室乗務員たちに本格的なイタリアンでもてなされながら、私もこれからローマまで約12時間のフライトを満喫したいと思います。

S.Akimoto at 11:06|Permalink

2012年03月05日

キャビン歳時記

 
日曜日の朝、東京の下町に在住でKLMオランダ航空に客室乗務員として勤務するMさんからメールが入りました。彼女は関西/アムステルダム線を中心に乗務し、フライトが終わると東京に戻ってきます。「先ほどアムスから関空に到着しました」という一文で始まるそのメールがちょっとユニークだったので、紹介しましょう。


「3月のいまごろの時期は学生さんたちの卒業旅行がピークで、連日満席という状況が続きます。今日のフライトでもキャビンは若いエネルギーが満ち満ちて、ひっきりなしにビールの注文が入りました」とMさんは書いています。「ところがあと何週間かして4月に入ると状況は一転し、キャビンはリタイア組のチューリップ鑑賞ツアーのお客さまで埋め尽くされます。こちらは食事の時間が終わると、みなさんいっせいにお薬タイム。お酒やビールではなく、あちこちから『お水お願い!』という注文の手が上がります」

なるほど。そうやってキャビンでも季節のうつろいを感じながら、彼女たちはフライトを続けているのですね。

写真は、何年か前の春にオランダのアムステルダム郊外をクルマで走っていて遭遇した風景の1枚です。東京でも今週の半ばからぐっと春めいてくるとお天気キャスターが伝えていました。私にとっては、花粉と格闘しなければならない辛い季節ですが……。

S.Akimoto at 00:03|Permalink

2012年02月03日

ライアンエアーのこと

 
書斎にこもって毎日16時間くらいPCに向かい、書き物に集中するという状況が、ずっと続いています。3時間ほどの睡眠と、食事と入浴タイム、そして1日に何回かの休憩時間を除いて。もう山は越えて、ゴールは見えていますが。


いろいろと仕事が重なっています。昨夜から今朝にかけては、アイルランドのLCC、ライアンエアーについて書いていました。ドイツのフランクフルトから英国ロンドンへのフライトで体験したことを思い出しながら。そして、こう呟きながら。「良くも悪くも、あのLCCは半端じゃなかったなあ」と。それがLCCだと言われればそうなのですが、コスト削減のためにはとにかく何でもやります。徹底して。だからこそ、旅客輸送実績で欧州ナンバーワンにまで成長できたのでしょう。

上の写真は、そのライアンエアーの機内です。運航機材はボーイング737-800。書いていたら、また乗りにいきたくなりました。いまの仕事が一段落したら、出かけようかな。

あ、断っておきますが、このBlogは休憩時間に書いています。仕事の合間にやっていたら、さっさと原稿を進めてくださいと催促が来そうですから。なので、あまり長く休憩時間はとれません。今日はこのへんで。

S.Akimoto at 08:20|Permalink

2011年11月25日

クリスマスマーケット

 
チューリッヒ国際空港へは昨日、予定より45分も早く午後3時過ぎに到着しました。その後、スイス国鉄で空港駅から市内へ移動します。中央駅には約10分ほどで着き、ホームに降り立つと、なんだかいつもとは違う雰囲気が! ターミナルの東端に、何千ものスワロフスキーのクリスタルオーナメントがきらめく巨大なツリーが飾られているのを見て、思わず声を出しました。今日からクリスマスマーケットが始まっていたのです。


駅構内に並ぶ、キャンドルなど手作りの小物やホッとワインを売る屋台の数々。スイスの伝統料理ラクレットの店には長い列ができています。チューリッヒ中央駅のクリスマスマーケットは、インドア開催のもととしては世界最大で、今年も200軒近い屋台が軒を連ねていました。

チューリッヒのクリスマスマーケットは、中世の面影が色濃く残る旧市街や、駅前から伸びる大通りバーンホフシュトラッセでも開催されます。午後6時になると、街なかのクリスマスイルミネーションがいっせいに点灯されました。上の写真は、あちこちでイベントやミニコンサートが開催されていたその目抜き通り。チューリッヒ市民の足である名物のトラムが中央を走っています。そしてそのすき間を縫うように、数え切れないほどの人たちが通りを埋め尽くしていました。

S.Akimoto at 14:20|Permalink

2011年11月24日

冬を迎えた街へ

 
過去のメールを探したら、見つかりました。スイスのチューリッヒに赴任していた知人から去年届いた便りです。たしか、ちょうどいまごろの季節だったな。そう思って読み返したみたろころ、着信の日付は2010年の今日──11月24日。冒頭の季節のあいさつの部分で、こんなことが書かれていました。


 昨夜、帰宅する途中で、街なかにちらちらと白いものが舞っているのを確認しました。今年の初雪です。そして一夜が明け、朝からかなりの勢いで降り続いています。今日の日中の気温は摂氏3度。今年もまた、スイスの冬が始まりました──。

今日現在の現地の気候を調べてみたら、やはり最高気温でも4度とか5度程度。そうか、毎年チューリッヒでは、この時期が本格的な冬の入り口なんだな。そんなことを思いながら、いまこの文章を書きつづいっています。

ここは、成田空港第1ターミナルのスターアライアンスラウンジ。これから私が向かうのは、そのチューリッヒです。今年10月19日のBlogでも予告したとおり、スイスインターナショナルエアラインズ(SWISS)の新しいビジネスクラスの取材を兼ねて〔写真はチューリッヒ国際空港〕。現地では街の中心にある中央駅のすぐ近くに宿泊するので、夜は同行する何人かを連れ立って、リマト川沿いの繁華街へ繰り出そうと思います。アツアツのチーズフォンデュの鍋でも囲んで、楽しく語り合うために。寒い季節にはあったかいおしゃべりが、何よりのご馳走ですからね。行ってきます!

S.Akimoto at 10:21|Permalink

2011年08月30日

去りゆく夏に

 
ドイツに来ています。猛烈に暑かったベトナム中部の旅から一転して、薄地の上着ではもう肌寒い季節に入った同国北部の都市・ハンブルグへ。成田から中継地であるフランクフルトまでは、約1年ぶりにルフトハンザのエアバスA380での快適なフライトを体験しました。


成田発9時30分のLH711便は、現地時間で昨日の午後2時過ぎにフランクフルト空港に到着しました〔写真〕。入国審査を済ませたあと、国内線への乗り継ぎまで2時間近くあったので一度空港の外へ出たとき、つい口から漏れたのが「あ、まずい!」という言葉です。空気が、予想した以上にひんやり。毎日汗まみれで行動したベトナム取材の記憶が鮮明に焼きついていいたため、勝手に「まだ夏は続いている」と思い込んでいたのかも知れません。帰国後すぐに次の取材の準備にかかりましたが、スーツケースには半袖ばかりを詰め込んできてしまいました。

さて、今日からは頭を切り替え、ここハンブルグとフランクフルトでルフトハンザの取材です。ルフトハンザの取材はこれまで定期的に続け、本社を中心にドイツの各拠点を訪ねるのもこの何年かでは毎年恒例になりました。取材テーマはその年によって違います。今年のテーマは「環境面」「技術面」での取り組み。事前に「来訪を楽しみにしている」と連絡をくれた技術・研究部門の幹部数名と会うため、ハンブルグ空港に隣接する同社のハイテク拠点、ルフトハンザテクニックへいまから向かいます。

S.Akimoto at 12:19|Permalink

2011年06月30日

珍しいミールサービス

 
普段はあまりしない体験なので、記録に残しておこうと思ってアップしました。下の写真です。メインの皿にはチキン料理にポテトと温野菜が添えてあって、あとはサラダとスープとパン。赤ワインのハーフボトルとおつまみのチーズも見えます。これ、どの路線のどのクラスの食事か、想像つきますか? 最近私が行った都市をアトランダムに列挙してみると──。


パリ、フランクフルト、ミュンヘン、ソウル、シアトル、ヘルシンキ、イスタンブール、ヨハネスブルグ、バンコク、ハンブルグ、台北、ニューヨーク、プラハ……。あと、どこ行ったっけ? そうそう、マラガとバルセロナにも先月、行ってきました。

では、この食事はどこへ向かう路線で? 答えは、スペインのバルセロナです。ワントレイで出てきているので、エコノミークラスだと思うでしょう。ブッブーッ! 不正解。これは機内食ではありません。マラガからバルセロナへ向かうスペイン新幹線AVEの車内で出された、いわば“車内食”です。5月25日のBlogでも報告したように、1等車での食事なので一応は飛行機のビジネスクラスと同等だと思うのですが、とはいえ2等車では食事は出ないのでプレミアムエコノミーくらいのレベルでしょうか。

味も、可もなく不可もなく。マラガからバルセロナまでの所要時間は5時間40分ですが、食事が運ばれてきたのは4時間を過ぎた頃でした。でも、なかには出発して3時間も経たないうちに食べていたグループもあります。なぜなのかなあと思って見ていたら、彼らは途中駅で降りていく人たち。人によってサービスする時間がまちまちなので、担当の乗務員も大変そうでした。

S.Akimoto at 23:48|Permalink

2011年06月01日

悲しき“壁抜け男”

 
無事に帰国しています。道中、大きなトラブルもなく。あ、トラブルと言えば、一つだけ失敗がありました。私は一人旅をする場合、市内などの移動にいっさいタクシーは使わず、すべて公共の乗り物で──というポリシーがあります。重い荷物を引きずっての階段の上り下りなどきついシーンもありますが、それはそれで、旅人目線でいろんなことが見えて面白い。失敗というのは、バルセロナの地下鉄駅でのことでした。


マラガからバルセロナ・サンツ駅に列車が到着し、例によってそこから地下鉄でホテルへ移動しようとしました。バルセロナの地下鉄は、自動販売機で切符を買い、その切符を改札手前の挿入口に通してから回転式のバーを自分で押して改札を抜けます。私の旅の荷物は、PCやカメラ機材を入れたビジネス用ショルダーバッグと、着替えなどを詰めた中型スーツケースの二つ。切符を改札に入れて抜けようとしたとき、先に大きい荷物だけ通してしまい、自分自身が進もうとしたときに回転式バーが閉じてしまったのです。スーツケースは改札の向こう、私の身体は手前側という状態になり、身動きできません。深夜の23時を過ぎていたので、駅窓口ももう閉まっています。

いっそバーを飛び越えてしまおうかとも思ったのですが、地元の人たちに「アジアから来た男がズルをしている!」と思われるのも嫌だったので、ホーム側に入ってしまった荷物を通りかかったおじさんに見ていてもらい、新しく切符を買い直しました。まあ、たいした出費ではないのでいいのですが、バーに挟まって身動きできなくなった自分はまるでモンマルトルの“壁抜け男”みたいだったろうな──などと考え、いまでもちょっぴり恥ずかしくなります。

で、パリのモンマルトルに到着してから、丘の北側にあるその“壁抜け男”を訪ねました。上の写真が、フランスの作家マルセル・エイメの短編小説にちなんでつくられたそのモニュメント。壁を自由に通り抜ける特殊な能力を使ってパリ中を騒がせた大泥棒が、一人の人妻に恋をしてその能力を失い、壁抜けの途中で閉じこめられてしまうという話です。真下まで行って、顔を見上げてみました。バルセロナの地下鉄駅での私も、バーに挟まれて身動きできず、きっとこんな困った顔をしていたに違いありません。

S.Akimoto at 08:52|Permalink

2011年05月30日

パリを去る日

 
トルコのイスタンブールを経由してスペイン・マラガに入り、鉄道を乗り継いでバルセロナ、パリへと移動してきた旅も最後の日を迎えました。「ピカソの足跡を追う」というテーマを掲げながら、お伝えできたのは幼年期から青年期のほんの一時期に過ぎません。ピカソは1912年からセーヌ川左岸のモンパルナスへ移り、旺盛な創作活動にもいよいよ拍車がかかります。


1937年にはあの『ゲルニカ』を制作し、その年に開催されたパリ万国博でスペイン館の壁画として公開されました。同じ万博会場の航空館では「自由に空間をゆきかう未来」をテーマに、カラフルな色彩を使った展示で本格的な航空機の時代へ向けて人々の夢をかきたてます。一方でスペイン館では、白、黒、グレーというモノトーンを基調とするピカソの壁画を中心に、世界に死と悲惨とをもたらす使者としての航空機が透視されました。“航空機の光と陰”──このテーマについては、また別の機会にピカソの『ゲルニカ』もからめながら、じっくり考察してみたいと思います。

さて、パリを去る前に、もう一度だけモンマルトルの丘にのぼってみました。パリらしからぬパリといわれる、この一帯の独特の下町風情が私は好きです。白亜の聖堂サクレ・クール寺院〔写真〕はいつ来ても同じように私たちを迎えてくれ、そして若き芸術家たちを引きつけてやまないこの街の魅力はいつの時代も変わりません。また来よう! そう思いながら丘の頂上に立ち、パリ市内を一望する景色をしっかりと目に焼きつけました。

これからシャルル・ド・ゴール空港へ。午前11時25分に発つトルコ航空1822便でイスタンブールへ向かい、そこで成田行き050便に乗り継いで帰国します。

S.Akimoto at 13:17|Permalink

2011年05月29日

アトリエ洗濯船

 
ピカソが生涯を通じて残した10万点を超える作品群の中でも、最もよく知られる一つが『アヴィニョンの娘たち』でしょう。この作品はキュビズム運動の出発点となり、20世紀の美術や建築の世界に革命をもたらしました。


それまでの具象絵画のように対象物を一つの視点から描くのではなく、対象をいくつもの構成要素に分解し、それを再構成することで成り立つキュビズムは──いいえ、やめておきましょう。私は専門家ではないし、どう書いても何かで見た説明の受け売りになってしまいます。ともあれ、ピカソは『アヴィニョンの娘たち』で革命を起こしました。絵画の新しい手法を開拓するために、何カ月もアトリエにこもって。そうして100枚以上の習作を描き、1907年にあの大作を完成させたのです。

この『アヴィニョンの娘たち』が誕生する舞台となったアトリエを訪ねました。モンマルトルの丘の中腹、サクレ・クール寺院を起点に西側斜面のいくつかの路地や石段を下りていくと、その先のエミール・グドー広場にあります。パリに拠点を移したもののまだ極貧生活が続いていたピカソは、ここにアトリエを構え、マティス、ドガ、モディリアニなど多くの芸術家と共同で生活を始めました。上の写真が「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」という奇妙な愛称で呼ばれたアトリエの跡です。細長い建物がその頃セーヌ川に浮かんでいた洗濯用の船とそっくりだったというのが名前の由来だとか。

当時の建物は残念ながら1970年の火災で全焼してしまい、現在はその窓の部分が残されているだけ。しかし、訪れる人はいまも絶えません。外国からの観光客や、スケッチブックをかかえた画家の卵たち、そして課外授業で訪れる地元の小学生たちも。広場のベンチに座ってしばらく様子を見ていたら、30分ほどの間に100人を超す人たちが坂道をのぼって広場にやってきて、アトリエ跡地の前で5、6分足を止め、また立ち去っていきました。

S.Akimoto at 15:50|Permalink

2011年05月28日

モンマルトルの丘で

 
パリに来ています。バルセロナからはフランス国境に近い街フィゲラスまで特急で行き、そこで新幹線TGVに乗り換えてパリ・リヨン駅を目指しました。フィゲラスを出発して間もなく、楽しみにしていた“鉄道での国境越え”も果たしたのですが──正直、あまり実感がありません。EU(欧州連合)という一つの括りで統合されてからは、ヨーロッパの多くの国々を入国審査なしで行き来できてしまうし、国境を越えるごとに通貨を両替する必要もいまはなくなりました。


そのぶん便利になったのですが、一方で、鉄道を乗り継ぎながら欧州各国を当てもなく旅していた頃が懐かしく思えてきます。国境の駅に列車が到着すると、乗客はパスポートを持って一度降りるよう指示されました。国境の駅のホームはとても長くて、その一番手前に列車は止まります。ホーム中央にある駅舎は入国審査場になっていて、パスポートを持って駅舎の手前入り口から入り、入国審査を済ませて奥の出口へ。すると列車は少し前に移動していて、また同じ車両に乗り込むのです。

ただしこれは、2等車の乗客の話。1等車の乗客は車掌が車内でパスポートを集めて回り、まとめて入国審査の手続きをやってくれるので、降りる必要がありません。国境の駅に冬の暗い時間に着いたときは、ホームで寒さに震えながら「いつかは自分も1等車で旅ができる身分になりたい」などと思ったものです。こうして1等車の乗客になれた現在も、入国審査の仕組みが当時のままだったら、少しだけ優越感に浸れたのになァ(笑)。

さて、フィゲラスからのTGVは16時41分にパリのリヨン駅に到着。そのままRER(高速在来線)に乗り継いでパリ北駅へ、さらにそこからはメトロの2号線を利用して、先ほどモンマルトルのホテルに入りました。でも、ホテルでゆっくりしている時間はありません。この時期のヨーロッパは夜9時過ぎまで明るいので、まずは撮影です。パリ市内を一望できる場所を目指し、カメラを持って丘の頂上へ。モンマルトルの丘は正面(南側)から登るのが定番ルートですが、私の滞在ホテルは丘の西側にあるので、西側斜面からアプローチしてみることにしました。路地が入り組んでいて、目印となるサクレ・クール寺院のドームがときどき建物の陰になって見えなくなると、迷子になりそうで不安です。

途中の坂道で、こんな静かなカフェを見つけました〔写真〕。サクレ・クール寺院も向こうに見えているので、ここまでくれば迷う心配もありません。ドイツから来たというグループの手前のテラス席が一つ空いていたので、私も夕食を兼ねてちょっと一休み。赤ワインのハーフボトルと魚介のスープ、メインには鴨胸肉のローストをオーダーして、しめて28ユーロ。おいしかったし、お腹もいっぱいになったし、すごく良心的な値段だなと思いました。

S.Akimoto at 03:47|Permalink

2011年05月27日

ガウディとピカソ

 
バルセロナでピカソが構えたアトリエの変遷をたどってみると、じつに頻繁に拠点を変えていたことがわかります。そして不思議なのは、彼が決してバルセロナの旧市街を離れようとしなかったこと。バルセロナの都市空間は当時、海の近くの旧市街から郊外の新市街へと広がり続け、モデルニスモの斬新な建築も次々に誕生していました。ピカソが旧市街にこだわり続けたのは、何が理由だったのでしょうか。


1963年にオープンしたピカソ美術館も、立地にはピカソが愛してやまなかった旧市街が選ばれています。旧市街のモンカダ通り〔写真〕という細い入り組んだ路地を行くと、ピカソ美術館はまわりの家並みに埋もれるようにして建っていました。建物は歴史ある邸宅を転用したもので、入り口を抜けると、こぢんまりした中庭が美術館らしからぬ風情で入館者を迎えてくれます。

3,800点もある収蔵品はとても1日で観ることはできませんが、私は午前中の2時間をここで過ごしました。イギリス人らしいグループを引き連れたガイドが、何やら早口で解説しています。「中世のこの建物と展示されているピカソ作品の間に、一種の対話が生まれていることをぜひ感じ取ってください」というような説明が聞こえてきました。う〜ん、私にはよくわかりません。ただ、その両者が相まって、独特な雰囲気をかもし出しているのはたしかだと思いますが。

ところで、ピカソの最初のアトリエがガウディ初期の傑作であるグエル邸のすぐ斜向かいにあったことは、一昨日のBlogで報告しました。当然ながらピカソは毎日のようにこの建物を目にしていたはずですが、彼の作品の中にはまったくその影響が見出せません。拡張が進む新市街で当時建設中だったサグラダ・ファミリアは、莫大な資金を要するプロジェクトでした。グエル邸も旧市街にあるとはいえ、とてつもない贅沢な住宅だったのでしょう。旧市街に拠点を置き、貧困や老い、病気や死といったテーマを描いていた社会派ピカソにとって、ガウディは敵対するブルジョア的なるものの象徴だったのかも知れません。

S.Akimoto at 01:10|Permalink

2011年05月26日

路地裏の4匹の猫

 
故郷マラガを去ったピカソとその家族は、スペイン北西端の街ラ・コルーニャでの暮らしを経て、1895年9月にバルセロナにたどり着きました。ピカソはバルセロナでの最初の2年間は父ホセの指導にしたがって美術学校で学びますが、その後のマドリード留学から戻った1898年からはまったく別人のような生活を始めます。アカデミズムの画家として成功してほしいという父の期待と呪縛から解放され、まるで身体いっぱいに自由を享受するように。


17歳になったピカソは、教室のなかだけが絵を学ぶべき場所ではないことをすでに知っていました。バルセロナの路上に出れば、いくらでもモデルがいます。往来する市井の人々へのピカソの眼差しは、単に外観にとどまらず、一人ひとりが抱える苦悩や喜びなどの内部感情やその背後にある時代精神をも鋭く照射。それらを素早くスケッチブックに描きとめる訓練を繰り返すことで、ピカソの視覚と手の運動はほとんど一体化していきました。

ピカソにとってのそんな時代の象徴の一つが、上の写真──彼が毎日のように入り浸っていた居酒屋「クワトラ・ガッツ」です。日本語に訳すと「4匹の猫」という風変わりなこの店は、1897年に旧市街の路地裏にオープン。若き芸術家らが集まり、モデルニスモと呼ばれる前衛的な芸術運動の中心的存在になりました。展覧会や音楽会などのイベントもときどき開催され、1900年にはピカソ自身も初の個展をここで開いています。

モントシオ通りという、注意して探さないと見落としてしまいそうな細い路地の一角に、クワトラ・ガッツはありました。ドアを開けて中を覗くと、客はまだ誰もいません。若い従業員が掃除をしています。

「まだ開店前?」
「あ、はい」と、従業員は手をとめて近寄ってきます。「食事ですか?」
「ううん。カプチーノを1杯だけ」
「だったら、いですよ。どうぞ」と彼は言ってにこっと笑い、私を奥のテーブルに通してくれました。「あと20分もすると大勢のお客さんでうるさくなりますから、いまのうちにごゆっくり」
「ありがとう」

当時の店はいまはもうありません。現在営業しているのはピカソ生誕100年の1981年に、同じ場所にカフェラストランとして再オープンしたものです。なるほど、開店時間になると続々と観光客らが詰めかけ、各国の言葉が賑やかに私の耳にも聞こえはじめました。ピカソが足繁く通った頃も、毎晩のように熱い芸術論が飛び交ったのでしょうか。往年のクワトラ・ガッツが静かに店を閉じたのは、1903年6月でした。まるでそのすぐあとに、ピカソがバルセロナを去ってしまうことを予感していたかのように。

S.Akimoto at 04:25|Permalink

2011年05月25日

高速鉄道でバルセロナへ

 
これからしばらくは飛行機と離れ、鉄道での旅が続きます。その起点となるのが、かれこれ20年ぶりにやって来たマラガのマリア・サンプラーノ駅。まずは標準軌上を時速300キロ近くで走るスペイン新幹線AVEで、ここからバルセロナへ向かいます。


駅構内の発着案内ボードでTren(列車名)とDestino(行き先)、Hora(発着時間)、Via(ホーム)をチェックし、荷物検査を受けてから2番ホームへ〔写真〕。長距離列車に乗車する場合は空港と同様、駅でX線による荷物検査があります。それを済ませ、日本で購入しておいた鉄道パスと座席指定券をもう一度確認して、指定の車両に乗り込みました。

新幹線AVEは2008年2月に待望のマドリード/バルセロナ間も全線開通し、両都市間を最短約3時間で移動できるようになりました。私が予約した1等車両は通路をはさんで2席と1席というゆったりしたシート配置。料金には飲食サービスも含まれていて、飛行機と同じように乗務員が席まで飲み物や料理を運んでくれます。

マラガからバルセロナまでは5時間40分の旅。先ほど、22時30分にバルセロナ・サンツ駅に到着し、そのままメトロに乗り継いで旧市街のホテルに移動しました。遅い時間でしたが、チェックインは23時を過ぎるかも知れないとホテルには事前にメールを入れておいたので、問題ありません。そのメールをホテルに送ったら、15分後に「何時になってもかまいません。従業員みんなでお待ちしております。どうぞよい列車の旅を!」とホテル担当者から返信がありました。こういうさりげない対応は、旅人をホッとさせてくれます。それだけで、とても素敵な旅が始まる予感がしますから。

ホテルは旧市街のランブラス通りから一つ路地を折れた場所にあります。隣の古い建物は、かつてピカソがバルセロナに来て最初に住み始めたアトリエが入っていたもの。そして通りをはさんで真正面に見えるのは、アントニオ・ガウディの初期の傑作「グエル邸」です。ピカソはこのガウディ作品に毎日のように接しながら、何を思っていたのか? そんなことも考えながら、ピカソがバルセロナで暮らした8年半の間で一度も離れようとしなかった旧市街を中心に、これから街歩きを始めます。

S.Akimoto at 01:25|Permalink

2011年05月24日

芸術家の生家

 
赤ん坊は産声をあげるどころか身動きひとつしないため、助産婦はてっきり死産だと決めつけ、母親のほうの介抱にかかりきりだったといいます。居合わせた医師が機転をきかせなかったら、その子はどうなっていたのか? 放ったらかしにされた赤ん坊の顔に医師が葉巻の煙を吹きかけると、彼は顔をしかめ、激しく泣きはじめました。1881年10月25日午後11時15分──ピカソ誕生の瞬間です。


波乱含みの誕生でしたが、その後はたっぷり91年間を生きて、何人もの女性と恋に落ちながら天文学的な数の作品を残したパブロ・ルイス・ピカソ。この20世紀最高の芸術家が生まれてから10歳になるまで過ごした街を、私は昨日からずっと歩き続けています。

マラガ市内の中心部からいくつかの路地を抜けると、ラ・メルセド広場に面した5階建ての黄色い建物を見つけました〔写真〕。この2階の角部屋がピカソの生家で、現在はピカソ財団が管理し、版画や陶器作品を展示する小さなギャラリーになっています。アルバイトの管理人に頼んで、2階の観音開きの窓を特別に少しだけ開けてもらいました。そこから見える広場の先の鐘楼は、サンティアゴ教会──両親が結婚式をあげ、ピカソが洗礼を受けた場所です。

「幼いピカソが絵を描き始めたのは、言葉を覚えるより早かったんですよ」と、自分もマラガ生まれだというアルバイト青年はちょっぴり自慢げに話してくれました。「そう母親が言ったという記録が残されています。描くことへの関心は、美術学校の教師だった父ホセの影響でした」

マラガは闘牛でも有名な街です。ピカソが父ホセによく連れていかれたという、海の近くの闘牛場にも足を伸ばしてみました。円形の劇場で繰り広げられる生と死の儀式にピカソはたちまち夢中になったそうですが、自分が生涯このモチーフを描き続けるとは、その当時はきっと思ってもいなかったでしょう。初期のスケッチ『闘牛と6羽の鳩の習作』にこの主題が登場するのは、ピカソがすでに故郷を去ったあとのこと。父の急な転職により、まばゆい陽光と地中海からの風につつまれたマラガでの生活は、ピカソが10歳のときに終わりを告げました。

S.Akimoto at 07:54|Permalink

2011年05月22日

魅惑のワンナイト

 
私が乗ったTK051便は昨夕、定刻より40分ほど早く17時25分にイスタンブール空港に到着しました。そのままホテルへ移動しチェックイン。一晩泊まったのは、トルコ航空が無料で提供してくれた空港近くのホテルです。


イスタンブールは、ご存知のようにアジアとヨーロッパの接点に位置する都市です。トルコ航空はその地の利を生かして、ヨーロッパ域内74都市を含む世界170都市にネットワークを張り巡らせてきました。2011年夏スケジュールからは成田の出発時間が早まり、日本から同日接続できる都市も拡大しています。4月27日に開設したマラガ線は接続が翌朝になりますが、乗り継ぎのためにイスタンブールに1泊しなければならない乗客には、市内のホテルを1泊分無料で提供してくれる「ワンナイト・イスタンブール」というサービスもスタート。そう急ぐ必要のない旅なら、エキゾチックな街で一晩過ごすのも悪くありません。

空港に到着して入国審査を通過後、荷物を受け取ってから、さっそく到着ロビーの右手奥にある「ホテルデスク」へ。そこで成田から利用した便のボーディングパスと翌日の接続便のeチケット控えを提示すると、トルコ航空のスタッフが提携ホテルのリストの中から部屋を探して予約を入れてくれます。隣のカフェでコーヒーを飲んでいたら、10分もしないうちに送迎車が到着しました。

ホテルで軽くシャワーを浴びたあとは、ちょうどイスタンブールに取材に来ていた知人の記者たちと合流。本格的なベリーダンスが観られるディナーショーへ行ってみることになりました〔写真〕。一晩だけの滞在なのでつい夜更けまで羽を伸ばしてしまいましたが、今朝は目覚めもすっきりで、いま朝食をとりながらこの文章を書いています。ホテルのチックアウトは先ほど済ませました。これから空港へ移動し、いよいよピカソが生まれた街──スペインのマラガへ向かいます。

S.Akimoto at 14:11|Permalink

2010年11月12日

苦悩の画家

 
東京・六本木の国立新美術館で開催されている『ゴッホ展』を訪ねました。ピカソやゴーギャンなどと並んで、ゴッホは好きな画家の一人。その作品群に私が最初に出会ったのは、アムステルダム市内にあるファン・ゴッホ美術館です。それまで学校の教科書や絵ハガキでは見ていたものの、実物と対面したのはそのときが初めてで、1階から4階までが吹き抜けになった開放的な館内を半日かけて歩いたのを覚えています。


「ゴッホの作品には、ほとんど描き直しの跡がない。思い浮かんだ感情をそのままキャンパスにぶつけている。つまりゴッホの絵には、彼の誠実さが集積しているのだ」

あるゴッホ研究家が、どこかでそんなふうに書いていたのを思い出します。そのストレートな誠実さが、多くの見る人の心をとらえるのかも知れません〔写真は代表作の一つ『暗色のフェルト帽を被った自画像』〕。

ゴッホは「炎の画家」とか「苦悩の画家」などと称されますが、私のイメージとしては後者のほうです。オランダ南部のフロート・ズンデルトで生まれたゴッホは、27歳のときに画家になることを決意。ブリュッセル、アントワープ、パリを経て南仏アルルにたどり着き、37歳のときに自ら命を断つまでの10年間で300点以上の作品を残しました。しかし生前に売れたのは1点だけで、世間的な評価をほとんど得ることのなかったゴッホの作品はアルルなどには残っていません。その多くは、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館に収蔵されています。

アムステルダムの街を、またのんびり歩きたい。そんな気持ちが高まります。KLMオランダ航空の成田/アムステルダム線は2010年冬季スケジュールより、それまでの週7便から週10便に増便されました。毎日14時55分に発つKL862便(アムステルダム18時30分着)に加えて、週末の金・土・日には12時ちょうどに発つKL864便(同15時35分着)の運航も始まり、ますます行きやすくなっています。「KLMオランダ航空で行くアムステルダムの旅」の取材を、『誠Style』でスタートした連載『“飛行機と空と旅”の話』でも早めに計画しようと考えています。

S.Akimoto at 10:19|Permalink

2010年09月22日

一筆書きの欧州旅

 
成田と関空からイスタンブールへ週10便の直行便を運航するトルコ航空はこの秋、欧州全域の鉄道パスやチケットの販売を手がけるレイルヨーロッパおよび地球の歩き方とのジョイントで、ちょっとユニークな旅の提案を始めました。


名づけて「欧州自由区」。人気の観光都市イスタンブールを拠点に、そこから空の便と鉄道を組み合わせて自分が行きたいヨーロッパの都市を訪ね、最後はまたイスタンブールに戻って日本への帰路につくという“一筆書きの欧州旅”の提案です。そのプランづくりに役立つ専用のWebサイトも本日よりオープンしました〔写真〕。

空の旅の楽しさは変りませんが、ヨーロッパでは、鉄道で陸づたいに国境を越えられるというのが旅の大きな魅力のひとつ。じつは私自身のオリジナルの旅を「欧州自由区」で計画し、実践した結果をモデルルートの一例として同サイトなどに発表するという取材プランも浮上していて、いまいろいろ考えを巡らしています。

イスタンブールから、私の大好きな運河の街、アムステルダムに飛んで久々に取材してこようか。アムステルダムまで来たらぜひブリュッセルに寄ってほしいと言ってくれる知人がベルギーにいますし、ブリュッセルを訪ねたら、今年4月にアイスランドの火山噴火でやむなく渡航を断念したパリにも足を伸ばそう。そしてパリからは列車でワインの街、ボルドーを経由して、スペインに入るのもいいなあ。空想の中にヨーロッパの地図が広がり、過去に訪ねたときの街の様子や出会った人々の笑顔がよみがえります。

私なりの“一筆書きの欧州旅”──さて、どうしよう。これからしばらくは、このテーマが私の頭から離れそうにありません。

S.Akimoto at 10:35|Permalink

2010年09月11日

海辺の散歩道

 
目が覚めてカーテンを開けると、ヘルシンキは今日も朝からいい天気。ホテルにこもっているのがもったいないので、予定していたコラム記事を1時間ほどで書き上げ、さっさと送信して街の散策に出ました。


中央駅からエスプラナーディ通りを抜け、海沿いの道を風に当たりながら進みます。何のあてもなく歩いていると、ときどき出会うのが洒落たデザイングッズの店。シンプルで温かみのある北欧デザインは日本でも人気で、使えば使うほど愛着が増す一品も少なくありません。軒先にガラス細工の小物が並ぶ小さなショップを覗いていたら、中から店員さんが出てきてニコッと微笑みました。白いキャンドル立てを手にとって見ている私に声がかかります。

「素敵でしょ」
「ええ、ほんとに」
「ひとつどうですか、お土産に」
「フィンランドの人って、なぜこんな小さな雑貨にもこだわるんだろうね」
「北欧の人はみんなそう。厳しい気候の中で生活してますから」
「気候がどう関係しているの?」
「ヘルシンキももうしばらくすると、太陽が沈む時間がどんどん早まってきます。暗く、寒さの厳しい冬場は、北欧の人たちは家の中で過ごす時間が多くなるでしょう。だから毎日の生活で使う雑貨にも、自然と気持ちを込めるようになるんです」

なるほど。散歩の途中でマーケット広場に寄ったら、屋台に並ぶ色鮮やかな野菜や果物までがフィンランドデザインのように見えてきました。街歩きに疲れたら、オープンテラスのカフェでひと休み。フィンライドは世界でもコーヒーの消費量が最も多い国の一つで、インテリアに凝ったカフェも多く、落ち着いた時間が流れます。あとで人気のカフェ「ROBERT'S COFFEE」に行って、お土産にコーヒー豆を買って帰ろうかな。

S.Akimoto at 11:47|Permalink

2010年09月09日

首都ヘルシンキ

 
いまから5、6年前、急きょスペインのマドリッドへ飛ぶことになったときのことです。時間がないので、現地には少しでも早く到着したい。ところが、マドリッドへの日本からの直行便はありません。それでエアライン各社のタイムスケジュールを調べてみると、最短&最速で行けるのがフィンランド航空のヘルシンキ経由便だとわかりました。ヘルシンキへは、成田から約9時間30分。そこでほとんど待ち時間もなく乗り継ぎ、同日の20時過ぎにはもうマドリッドに到着できたことを覚えています。



じつはここに、フィンランド航空の最大の特徴があります。同社が目指してきたのは、アジアとヨーロッパを結ぶ“ネットワークキャリア”です。乗り継ぎに必要な最低時間(MCT=ミニマム・コネクション・タイム)が35分というヴァンター空港をベースに、北欧の主要都市はもちろん東欧、ロシア、バルト三国、そして西欧の各都市へ。まさにヨーロッパ全域をカバーするネットワークを築いてきました。日本からの到着とヨーロッパ線の出発をほぼ同じ時間帯に集中させるフライトスケジュールを組んでいるため、現在は東京、大阪、名古屋からヨーロッパの約40都市へ同日接続が可能になっています。

昨日のAY74便(エアバスA330-300)で、ヘルシンキに来ました。ほとんど満席でのフライトでしたが、ヘルシンキで降りたのは私を含めて全体の2割程度。残りの8割の乗客がここで乗り継いでそれぞれの目的地へ飛び立っていく姿を見て、ヘルシンキ経由の便利さを改めて実感しています。

S.Akimoto at 11:38|Permalink

2010年09月08日

オンエアは電車の中で

 
ラジオから流れる自分の声を聞く、というのも、何となくヘンな感じですね。先ほどオンエアを終えたTOKYO FMの朝の番組「クロノス」。その中の「追跡!」という7時20分からのコーナーで、“格安航空”をテーマに報道センターの古賀涼子さん〔写真右〕の質問に答えました。内容については同番組ホームページにさっそく掲載されていますので、そちらをご覧ください。


番組のオンエアを、私はじつは成田空港に向かう電車の中で聴きました。今日これからフィンランドへ発つ予定だったため、私の出演パートは昨日、TOKYO FMの半蔵門スタジオにお邪魔して1日早く収録。オンエアの時間はちょうど移動中だなあとも思いましたが、最近はPCを持ち歩いていれば出先でも聴けるので、ラジオというメディアがまたかつてのように身近な存在に戻りつつあるような気がします。

さて、これから11時発のフィンランド航空AY74便でヘルシンキへ向かいます。明日は世界各国からのジャーナリストと合流して、カンファレンスに参加。また滞在中はフィンランド航空の本社施設やヴァンター空港なども取材してくる予定です。

現地の天候はどうだろう? そう思っていま空港のラウンジでPCをネットにつなげて調べてみたら、ヘルシンキは週末にかけて晴天がつづき、最高気温は22〜23度(最低は10度前後)。北欧の短い夏はすでに終わりかけているようです。酷暑の日本から行くと、街を歩いてもきっとクーラーのきいた部屋で過ごすように快適でしょうね。行ってきます!

S.Akimoto at 09:58|Permalink

2010年08月24日

欧州夜行便

 
今年10月以降、ほぼ32年ぶりの再開となる羽田からの国際定期便には、やはり多くの関心が集まっているようです。前回のBlog「秋からの取材テーマ」にも、読者の方からさっそく以下のようなコメントが寄せられました。


「羽田の国際化、本当に待ち遠しいです。つい先日はエアカナダもバンクーバー線の就航を表明いたしました。ただ、欧州路線が日本航空のパリ線のみというのは少々残念ではありますが、今後に期待です」

欧米便については早朝と深夜の時間帯(22〜7時)に限定されたため、出発時間と到着時間の兼ね合いの関係で多くのエアラインが当初の就航を見送りました。JALが開設する羽田/パリ線はエールフランス航空とのコードシェア便として運航されますが、もともと欧州への路線は、成田からの出発便を見てもそのほとんどが正午前後の時間帯に集中しています。

そんななか、昼間の便とは別に成田から欧州への唯一の夜行便を運航しているのが、エールフランス航空です。「スターウィング」の愛称をもつAF277便は、成田を21時55分に出発してパリには現地時間の翌朝4時15分に到着。「初日から1日をフルに活用できるから得した気分になる」と、一部ファンの間で根強い人気を集めています〔写真は成田を夜発つAF277便〕。

4時15分着というのはちょっと早い気もしますが、旅客便や貨物便の発着は6時から23時までという“門限”がある成田では、それより遅い出発時刻を設定できません。出発は23時までOKですが、1時間くらいは余裕をもたせておかないと、何かのトラブルで23時を過ぎてしまえばその便は欠航になってしまいます。エールフランス航空277便の21時55分という出発時刻は、そんなリスクも考慮してのぎりぎりの設定でした。

それに、21時55分に成田を発って最短ルートを飛行すると、パリには定刻の4時15分よりもっと前──本当は3時ごろには着いてしまうという話も前に聞きました。「朝の3時じゃ、いくらなんでもさすがに早過ぎますでしょう。だからルートを調整するなどして、わざと到着時間を遅らせているんですよ」と関係者が私に言っていたのを思い出します。

S.Akimoto at 14:23|Permalink

2010年06月22日

物語の舞台に

 
プラハの旅の締めくくりとして、今回私が拠点とした「アリアホテル(Aria Hotel)」について紹介しておきましょう。プラハ城から丘を下った「マラーストラナ」と呼ばれる城下町の一角にたたずむ比較的新しいホテルです。近くを路面電車が走り、カレル橋からも徒歩5分という立地。どこへ行くにもとても便利でした。


ユニークなのは、建物のデザインやインテリアに偉大な作曲家たちの足跡が盛り込まれていること。客室のある各フロアは、オペラ、ジャズ、コンテンポラリー、クラシックなど音楽のジャンルがテーマになっていて、そのジャンルの音楽家や作曲家の名前がついた部屋にはその人のCDや本などが置かれています。私の部屋のフロアは「ボサノバ」がテーマでした。

私がとくに気に入ったのは、心づかいの行き届いたスタッフたちの対応と、夏場だけオープンするという屋上のガーデンテラスです。このテラスからの眺望は言葉を失うくらい美しく、歴史あるプラハの街並みをしばし満喫しました。その後、マネージャーに「写真撮影用に何か飲み物を」とお願いしたら、シャンパンとロゼワインのグラスを二つずも用意してくれたのにはビックリ。建物の壁とシャンパンの色合いが、そして屋根瓦の色とロゼワインの色が奇妙にマッチし、写真はド素人を自認する私にも不思議にいい感じの作品が撮れました〔写真〕。

人と人との小さな出会いと別れの物語を書くための舞台探しと、作品の構想を練ること──それが今回のプラハ訪問の目的でした。男と女を主人公に、ちょっぴりロマンチックな物語に仕立てるなら、ここは作品舞台として一番の候補かも知れません。

S.Akimoto at 15:57|Permalink

2010年06月21日

教会の鐘・夜の色

 
プラハでは一日に何回か、街のあちこちで教会の鐘の音が鳴り響きます。頭上から降ってくるその音色が耳にとても心地よく、毎朝近くの教会の鐘の音で目覚めるのが日課になっている人も少なくないと聞きました。


ホテルの部屋で夕方の鐘の音を聞いていたら、再び街に繰り出したくなりました。昼から夜に切り替わる時間帯のプラハは、とくに幻想的です。ほとんどの建物が輪郭を失いはじめるとライトアップされる、プラハ城とカレル橋〔写真〕。その下で、ヴルタヴァ川に浮かぶ船が遠慮がちに光を発し、100年前のガス灯と同じデザインの街灯が路地や石畳をほんのりオレンジ色に照らします。一国の首都でありながら、これほど控えめな色と光に演出された街を、私はほかに知りません。

足を止めて、石の壁にもたれかかりました。通りに沿って点々と続く街灯の周辺だけが、ぼんやりした丸い光に包まれています。

ここは、どこだっけ?
あれ。いまは、いつだっけ?

そんな疑問がふと脳裏をよぎり、心をからっぽにしたまま石畳の道をまた歩き始めます。街灯のか細い灯りだけを頼りに、どこまでも。建物の壁に刻まれた彫刻が現れては消え、2010年の現在から歴史の中のプラハへどんどん迷い込んでいくような錯覚におちいりました。

S.Akimoto at 13:29|Permalink

2010年06月20日

あの夏を忘れない

 
旧市街から新市街へ向かうと、10分ほどでヴァーツラフ広場に出ました。「プラハのシャンゼリゼ」といわれるヴァーツラフ広場にはカフェやホテル、アクセサリー店などが並び、世界中から多くの観光客が訪れます。ですが、そうした観光客相手に働くチェコ人はいても、一般のチェコの人たちはあまり見かけません。彼らにとってここは、暗い過去を背負う場所だからです。


1968年の春から夏にかけて、旧チェコスロヴァキアでは政治・経済の自由化に向けた改革が頂点を迎えました。そんな情勢にソ連の共産党指導部は危機感を抱き、8月20日深夜から21日にかけて軍隊をプラハに侵攻。このヴァーツラフ広場を何台もの戦車が占拠し、市民が夢見た「プラハの春」を無惨に打ち砕きました。

上の写真の正面に見えるのは国立博物館です。黒ずんだ建物に近づいてみると、円柱や窓枠や壁面に、鋭くノミでえぐったような白い斑点が当時のまま残されていました。ソ連軍の戦車から発砲された機関銃の弾痕です。広場の一角には、軍の侵攻に抗議し「この8月を忘れるな!」という遺書を残して焼身自殺したヤン・パラフの遺影が置かれています。その後、彼の死に衝撃をうけた男女18人もの若者が連鎖的に自らの命を絶ちました。

そして民主改革への大波が東欧諸国にうねり始めた1989年。劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルを先頭にチェコの人々の心がひとつに結束し、プラハにもついに待ち望んでいた民主化の瞬間が訪れます。11月23日と24日の両日には100万の市民が広場を埋め尽くして、一滴の血を流すこともなく「ビロード革命」を達成。ハヴェルが内外に向けて声明を発表したのも、この広場のビルのバルコニーからでした。

私が最初にプラハを訪れたのは、この革命によってチェコスロバキアの共産党政権が崩壊した直後でした。あれから20年が経過したいまも、パラフの遺影にはたくさんの花が捧げられ、その前で静かに祈る人たちの姿を見かけます。

S.Akimoto at 12:45|Permalink

2010年06月19日

迷路を抜けて

 
プラハの中心を流れるヴルタヴァ川は、右に左にと大きく蛇行しています。街なかの道がどれも複雑に折れ曲がっているのは、きっとそのせいでしょう。地図に頼らなければとんでもない迷路に入り込んでしまいそうですが、周囲の建物を注意深く見ながら歩くと、ひとつの通りから平行する別の通りへ建物の内部を貫通している“通り抜け”の道をあちこちで発見できます。迷って出口が見つからないときは、この“通り抜け”の道を探すといい──10年前のこの街を訪れたときに、地元の人からそう教わりました。


石畳の道をふらふら歩いていたら、カラクリ時計の塔で有名な旧市街市庁舎の前に出ました。かつては見張り台として使われていたこの塔の高さは70メートル。現在は観光客に開放されていて、上まで歩いて登ることができます。と、塔の上から突然、ラッパの音が響いてきました。

見上げると、何人かの若者が例の応援ラッパ「ブブゼラ」を吹いて、アメリカの国旗を振っています。現在開催中のW杯南アフリカ大会に出場しているアメリカチームのファンでしょう。この先の旧市街広場にパブリックビューイングが設置され、間もなく始まるアメリカ対スロベニア戦を生で観戦しようと、たくさんの人が集まっています。

広場に並んだ屋台からは、おいしそうな香りが漂ってきます。少し疲れたので、ビールとホットドックを買って、ここでちょっとひと休み〔写真=背景に見えるゴシック様式の双塔の建物は「ティーン聖母教会」〕。ビールは60Kc(チェココルナ、約300円)、ホットドックがは40Kc(約200円)でした。物価は日本の3分の2程度でしょうか。腹ごしらえをしたあとは、もう少し先まで足を伸ばしてみます。

S.Akimoto at 12:55|Permalink

2010年06月18日

古都プラハへ

 
昨日のフランクフルトは一日、雨。そんななか、ルフトハンザのいくつかの部署を訪ねて担当責任者らに会い、午前中から夜遅くまで精力的に取材を進めました。具体的なテーマとしては、建設中の新しい空港ターミナル「Aプラス」やエアバスA380のキャビン設計についての取り組み、よりハイレベルなサービスの提供を目指して客室乗務員の意欲を引き出すための人事制度改革などです。


取材は深夜にまでおよび、最後にファーストクラスターミナルを撮影させてもらったのが、夜の11時過ぎ。それからダウンタウンのホテルに戻ると、もう疲れ果ててシャワーを使う気にもなれずに、そのままベッドに倒れ込みました。おかげで、今朝の目覚めはすっきりです。

フランクフルトの現在の時刻は朝の6時。カーテンを開けると、昨日とは一転、さわやかな快晴です。これから朝食を摂ったあと、荷物をまとめてフランクフルト空港に隣接するルフトハンザのケータリングセンター(機内食工場)へ向かい、アジア路線での新しいメニュー開発などについて担当者に取材します。そして終了後は、フランクフルトを正午に発つ便でチェコのプラハへ。

プラハを訪ねるのは、かれこれ10年ぶりになります。今回は個人的なテーマでの取材が目的で、ヴルタヴァ川に架かるカレル橋を旧市街からプラハ城側にわたったすぐのところにホテルを予約しました〔写真〕。ここを拠点に、休養も兼ねて、1,000年の歴史をもつ古都をゆっくりと歩いてくるつもりです。

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2010年05月19日

午後9時の“青空”

 
ミュンヘンには定刻より少し早く、現地時間の午後5時に到着しました。ゲートで出迎えてくれたルフトハンザのスタッフたちと空港内のビアホールで明日の取材の打ち合わせをし、しばらく雑談したあと、Sバーン(ドイツの国有鉄道)に乗ってホテルへ。


明日は朝一番の便でハンブルグに飛ぶので、今日は出歩くのをやめて、ホテルで静かに過ごすつもりでいました。が、どうしても「静かに休む」という気持ちになれません。なぜって、午後7時を過ぎても、8時になっても、外がいっこうに暗くならないからです。

この時期のヨーロッパは、とにかく日が長い。ホテルにこもってじっとしているのがもったいなくなります。で、結局はダウンタウンに繰り出しました。写真はダウンタウンの中心部で、19世紀後半に建てられたこのゴシック様式の建物は現在のミュンヘンの新市庁舎です。それよりも見ていただきたいのは、この空の色──これで時刻は午後9時過ぎですよ!

周辺をしばらく散策してから、せっかくドイツに来たのだからと近くのレストランに入って、いまが“旬”のホワイトアスパラとウインナーシュニッツェル(仔牛のカツレツ)とビールを注文。ディナーを終えて10時半過ぎにレストランを出たら、ミュンヘンの街でもようやく夜が始まっていました。

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2010年03月06日

ジャンボ・ホステル

 
ロンドンに在住の知人のTVプロデューサーと、メールを使って久しぶりに会話をしました。「どう、元気にしてる?」「頑張ってますよ〜」といった感じで。そんなやりとりの中で、彼女が「そういえば最近、ヨーロッパではこんなのが話題になっていますよ」と知らせてくれたのが、スウェーデンの首都ストックホルムのアーランダ国際空港に1年ほど前にオープンしたユニークなホテルです。


古くなって現役を退いたジャンボ旅客機(ボーイング747-200)を改造した、世界でも珍しいホテルです。空港近くでユースホステル事業を始めたいと考えていた起業家のオスカー・ディオス氏がこの退役機に目をつけました。

キャビンに450席あったシートはすべて取り払い、ベッド3台ずつを収容した25の部屋とシャワールーム、トイレ、カフェなどを設置。見晴らしのいいコクピットは、ご覧のようなスイートルームに生まれ変わりました〔写真〕。

オープン1周年を迎えた今年1月には、ホテル側から「世界中の旅行者から予約が絶えません」といったコメントが発表されました。ドアを入ると、CAの制服を着た受付嬢が出迎えてくれるのも人気の秘密のようです。料金はリーズナブルで、コクピットのスイートルームでも日本円で3万5,000円程度。地上に降りて動かない旅客機には私は興味がありませんが、マニアにはたまらないかも知れませんね。

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2010年02月26日

パリの思い出が……

 
思い出の詰まった曲、というのがあります。その音楽を聴くと、自分がある時代にふっと引き戻されていくような。たとえば、クラスの女の子に心ひかれた小学校高学年の頃に。たとえば、野球に明け暮れた中学校の3年間に。そしてたとえば、旅に目覚め、夏休みや春休みになるとバックパックを背負って北海道から沖繩までを放浪した高校時代に──。


最近、いまから20年ほど前に流行ったある曲をYouTubeで検索して見つけ、それを繰り返し聴いていました。深夜に、書斎で照明を落として、軽くお酒を飲みながら。その曲に身をゆだねるとよみがえってきたのは、パリの街なかを当時、ウォークマンを胸ポケットに入れてレンタサイクルで走り回った記憶です〔写真はそのときに撮ったシャンデリゼ通り〕。

懐かしい音楽とともに過ごすひとときは、仕事を終えたあとの癒しの時間でした。それが大失敗だったことに気づくまでは。というのも、いまになって繰り返しその曲に触れたことで、そこにセットになっていた当時のパリの思い出が「現在の記憶」に塗り変わってしまったようなのです。同じ曲を聴いても、悲しいことに、もうあのときのパリの情景が浮かんでこなくなりました。何年かして改めて聴き直してみても、きっとその曲に貼り付いているのは、原稿書きにひーひー言っている2010年2月の記憶でしかないのでしょう。

みなさんも、思い出がセットになっている曲は、ごくたまに忘れた頃に聴く程度にとどめておいてくださいね。大切な記憶をリセットしてしまわないためにも。私は思い出をもう一度つくり直すために、この4月にプライベートでパリに飛ぶことを決め、今週チケットを申し込みました。


S.Akimoto at 23:44|Permalink

2009年11月08日

異国で“壁”を壊す

 
もうずっと前の話ですが、私はある月刊誌に『22歳の夢』という連載を持っていました。さまざまな世界で輝きを放っている22歳の人たちにスポットを当てた人物エッセイです。たとえば、朝日新聞の“ひと”欄のような企画をイメージしてもらうといいかも知れません。その第1回目として、ある女性チェロ奏者を取り上げ、以下の「異国で“壁”を壊す」と題する文章を発表しました。


※ ※ ※

「え、どうしてですか? もったいない!」。彼女は本当に驚いた声を出した。海外勤務を嫌う若者の増加が話題にのぼったときのことだ。外国暮らしの有意義さを身をもって体験中の彼女には信じられないことだったのだろう。9歳でチェロを始め、高校2年でコンクールに優勝。その後はリサイタルに、演奏旅行にと忙しい日々がつづく。「順調すぎるほど順調にきたし、このままでも大して苦労なくやっていけたかも知れません」。が、そんなときに出会ったのがドイツ・リューベック国立音楽大学のダヴィット・ゲリンガス氏だった。氏の演奏に彼女は魅了され、そして、気がついたら夢中で門を叩いていた。「本場欧州でいい先生につくのは大変です。第一に、大学の籍に空きがない。とにかく行って、弾いて、気に入ってもらうしかありませんでした」。リューベックはハンブルグの北、東西国境に近い町。留学が決まったのは“壁”が崩壊して間もなくだった。「こっちに来てすぐ、東側のある町に演奏会の合同リハーサルのためクラスの仲間と出かけたんです。そのときはもう、外国人である私に対してさえパスポートを見るでもなく、統一されたも同然の自由な往来ぶりでした」。40年も隔てられていた町の間で、行き来ができるようになった途端に音楽の交流が再開する。彼女にとってそれは大きな驚きだった。「伝統の違いなのでしょう。苦労はイヤという最近の風潮もわかりますが、早い時期に違った世界を見るチャンスがあるなら、私は行くべきだと思う。生徒のレベルも日本とは比較にならないし、ここで自分の“壁”を壊していくことで、また一歩前に進めそうな気がしています」

※ ※ ※

この文章に出てくる「東側」とは旧東ドイツのことであり、崩壊した「壁」とは、もちろんベルリンの壁です。私がドイツのリューベックに飛び、このチェロ奏者にインタビューしたのは、壁が崩れて間もなくのことでした。ベルリンでは明日──11月9日に、壁が崩壊して20周年を迎えます〔写真は、ベルリンの街なかにいまも残されている壁の一部。2006年秋に撮影〕。

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2009年11月05日

冬のコペンハーゲン

 
毎年この時期になると、そろそろ「今年のクリスマスシーズンはどこを旅しようか?」といった話題があちこちで出始めます。クリスマスの旅──おすすめはたくさんありますが、そうですね、いまならデンマークのコペンハーゲンが狙い目かも知れません。


この季節、コペンハーゲン市内では11月中旬に始まるチボリ公園のクリスマスマーケットをはじめ、さまざまなフェアやイベントが開催されます。クリスマスプレゼント用に、北欧デザインの小物を集めてくるのもいいでしょう。レストランやカフェではこの時期にしか味わえない伝統料理やクリスマスの特別メニューが登場するほか、市庁舎広場とコンゲンス・ニュートー広場を結ぶ恒例のクリスマストレインも走り始めます〔写真は北欧デザインの巨匠、アルネ・ヤコブセンがデザインしたホテル「ラディソンSASロイヤル」の一室から眺めたコペンハーゲンの街並み〕。

しかも、嬉しいニュースが一つ。スカンジナビア航空(SAS)が、9月7日から10月31日まで実施してきた「コペンハーゲンカード」の無料プレゼントを、12月31日まで延長すると発表しました。コペンハーゲンカードは、私も取材で訪れるときにはよく利用しますが、これがとても便利! 市内の交通機関や有名博物館・美術館などを含む60以上の施設の入場が無料になる、24時間有効のカードです。コペンハーゲン空港からの地下鉄も無料で乗車できるほか、たしか市内のレストランやレンタカーも割引になりました。

コペンハーゲンカードは、通常だと225デンマーククローネ(30ユーロ)、現在のレートで4,000円程度します。それがSASを往復で利用するとタダでもらえるのですから、利用しない手はありません。北欧で過ごすクリスマス──素敵だと思いますよ。

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2009年09月03日

ミュンヘンが恋しい

 
早朝のオフィスの窓を開けると、空気がひんやり。9月に入ったばかりなのに、もうすっかり秋めいてきました。そして毎年この時期になると思い浮かぶのが、ドイツ・ミュンヘンのことです。同市で開催される恒例の一大イベント「オクトーバーフェスト」が、ビール好きの私には気になって仕方ありません。


レーベンブロイ、ホフブロイハウス、アウグスティナーなどのビール会社が市内の公園にそれぞれ1,000人は収容できる巨大テントを張り、自慢のビールとバイエルン料理を用意。会場には世界中から何百万人というビール愛好家たちが集まり、きっとまたどんちゃん騒ぎが繰り広げられるのでしょう。いいなあ。

今年のオクトーバーフェスト開催は9月19日〜10月4日に決まり、この期間中はミュンヘンをハブ空港の一つにするルフトハンザもお祭りムードに包まれます。たとえばミュンヘン発の長距離便では、名物の白ソーセージや地元産のマス料理、デザートのレーブクーヘンといったバイエルン地方の伝統料理を提供。また一部路線では、地元の人気ファッションブランドがデザインしたディアンドル(民族衣装である胴衣とギャザースカート)を女性客室乗務員が着用してサービスに当たります〔写真〕。

ネイビーに染められた胴衣&スカートと、黄色を基調としたエプロン──なかなか優美ですね。ルフトハンザのコーポレートカラーを反映させたこのディアンドル姿のスタッフには、ミュンヘン空港のカウンターでも出会えるそうです。

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2009年08月18日

壁崩壊から20年

 
写真は、かつて28年間にわたって街を東西に分断していた“壁”が崩壊したその1年後──1990年11月にベルリンを訪れたときに撮影したものです。壁崩壊のニュースを聞いた1989年秋にも急きょ現地入りしたのですが、そのときは混乱が激しくて思うような取材はできず、1年後に改めて飛びました。


旧西側から東側に向かって歩いていると、開放されたブランデンブルグ門に近い目抜き通りの一角で人だかりを見つけました。人々がショーウインドウを覗き込み、展示されているモーターボートやバイクに見入っています。「YAMAHA」と表示されたショールームでした。群がっている人の多くが東側からやってきた人たちで、そのうちの一人、大学生のAさんは「働いてお金がたまったら、あれを買うつもり。ずっと前からの夢なんです」とモーターボートを指さして目を輝かせました。

日没前の時間帯から東側エリアに向かうと、当時は薄暗い街灯の下で街全体が沈んで見え、西側エリアと比較してこれが同じ国なのかと思うほど“格差”を感じたことを覚えています。日本製を含めた西側諸国の工業製品に東ドイツの若者たちが羨望のまなざしを向けるのも当然という気がしました。

東側エリアはその後、急ピッチで開発が進み、ファッショナブルでエキサイティングなスポットが点在する街に生まれ変わりました。新しいホテルやショップが建てられ、世界中から多くの若いアーティストたちも移り住んできています。私もこれまで機会があるごとにベルリンに足を踏み入れ、そうした変化の様子を観察しつづけてきました。

今年は、壁崩壊からちょうど20年。現在開催中の世界陸上が終わると、街は一気に“お祝いモード”に突入するでしょう。その区切りを迎える秋には、私も何としてでも再訪したいと思っているのですが、現時点でまだ11月のスケジュールが確定できません。現地やドイツ国内に住む知人たちから「秋にベルリンで会おう」と連絡をもらっているので、ぎりぎりまで諦めずにスケジュールを調整したいと思っているのですが。

S.Akimoto at 14:09|Permalink

2009年04月26日

白アスパラと白ワイン

 
JALに勤務する“H”さんから、木曜日にアップしたBlog「エンジン内の静寂空間」にコメントが寄せられました。「面白いソファーですね。航空会社なのですから、航空会社ならではの物がラウンジにあるのはいい案ですね」と。そして彼のコメントは、こう結んでいました。


「ドイツには僕も昨年行きましたが、また行きたいです。シュパーゲル(白アスパラガス)の美味しい季節ですね」

そう、白アスパラはいまが“旬”です。そして私も、もちろんいただきました。今回の旅の途中、ドイツのおいしい白ワインが無性に飲みたくなって、フランクフルト空港の取材でいっしょになったアメリカ人ジャーナリスト数人と連れ立って郊外のワイナリーへ。私たちが訪ねたのは、ドイツ西部のライン川沿いにある家族経営の「キューリングジロー・ワイナリー」です。そこでのディナーの席でシェフがすすめてくれたのが、たくさんの白アスパラを添えた仔牛のシュニッツェルの料理でした〔写真〕。

テーブルに並べられたグラスに数種類の白ワインを注いでもらい、テイスティングにもトライ。どこのワインが好きか? と質問してきたシェフに「赤はフランスのボルドー産、白ならドイツワインも大好きですよ」と答えると、彼は「最近の異常気象による地球の温暖化は憂ふべきことですが──」と意外な方向に話を振りました。

「ドイツではもともと白ワインには定評がありますが、赤に関してはヨーロッパでももう少し南のフランスや、国境を越えたスペイン辺りで獲れる葡萄が適していました」と、シェフは続けます。「ところが最近の地球の温暖化で、その赤ワインに適した熟れ頃の葡萄の産地が、ちょうどこの辺りに移ってきたんです」

「つまりこれからは、ドイツ産の赤ワインにも注目ってわけか」
「おいおい、まるで異常気象を喜んでいるような口ぶりだな」
「そういえば、もともとピノノワールの3大生産地にはドイツも入っていなかった?」

アメリカ人ジャーナリストたちもおしゃべり加わり、笑いの絶えない楽しい一夜になりました。

S.Akimoto at 13:09|Permalink

2009年04月24日

ハイデルベルグ

 
“イッヒ・ボーネ・イン・ハイデルベルグ”──日本語に訳すと「私はハイデルベルグで生まれました」。このフレーズが記憶に焼きついて離れません。学生時代の必修科目だったドイツ語の教科書で、一番最初に出てきて習ったのが上の基本構文です。


決して真面目な学生だったとは言えず、いまではほとんどのドイツ語を忘れてしまっているのに、“イッヒ・ボーネ・イン・ハイデルベルグ”だけがずっと頭の中で繰り返されてきました。ハイデルベルグってどんな街なのだろう? そんなことを思ったのも一度や二度ではありません。今回の旅でやっと念願がかない、ドイツ最古の大学があるというこの中世の街を訪れることができました。

フランクフルトからバスで到着し、サンドイッチとビールで軽い昼食をとったあと、まずは石畳の道が続く旧市街の丘をのぼって街のシンボルであるハイデルベルグ城をめざします。14世紀から増改築を重ねてきたため、ゴシックやルネッサンスのさまざまな建築様式が残され、そのテラスからはレンガ色に染まったハイデルベルクの街並みが一望できました〔写真〕。

上に見えるのは、ライン川の支流にあたるネッカー川です。有名な石組みの"カール・テオドール橋"のたもとからはソーラーボートでの川下りクルーズが出ていると聞いたので、これから街に下りて乗ってみようと思います。

S.Akimoto at 13:24|Permalink

2009年04月22日

ヘッセン州の小さな町

 
ドイツ・フランクフルトから南へ約50キロ──「ゼーハイム」という、美しい森と緑に囲まれた小さな町に来ています。


じつはここについ先日、ルフトハンザの新しいトレーニング&カンファレンスセンターがオープンしました。世界中の拠点で活躍するルフトハンザのスタッフたちが、次のステップにキャリアアップするためのトレーニングを受ける施設です。ユニークなのは、ルフトハンザの社員のためだけでなく、広く社外の企業にも開放していること。そのために近代的なホテル機能も完備しています。

実際にここに宿泊して各施設を視察することが、今回の旅の目的の一つです。フランクフルト空港に降りてバスで移動し、先ほどチェックイン。ほかにアメリカやアジアなどからも数名のジャーナリストが招待され、夕方までに集まって来ました。80のトレーニング施設と483のゲストルームがあるほか、レストラン&バー、ビジネスセンターや会議室、フィットネスルーム、ビリヤードやボウリングなどの娯楽施設まで揃っています。案内してくれた同センターの支配人は「ホテルの役目も兼ねるエアライン訓練所としては世界で唯一です」と誇らしげに話していました。

午後6時からのカクテルパーティに参加したあとは、英アビエーションウィークの北米特派員ダレン・シャノン氏〔写真左〕とルフトハンザ広報マネージャーのパトリック・メッシェンモゼル氏〔同中央〕の3人でプールサイドのバーで軽く一杯。話の中で前日が私の誕生日だったことがわかると、ダレンが「極上のスコッチをおごらせてくれ」と言い出し──ヘッセン州の小さな町での思わぬバースデイパーティが始まってしまいました。

明日はフランクフルト空港で、ルフトハンザが“変革”を進めてきた最新の空港機能や施設を取材します。

S.Akimoto at 14:14|Permalink

2009年03月11日

夏のベルゲン直行便

 
ノルウェー第二の都市ベルゲンをスタートして、同国の首都オスロへ。雄大な4つのフィヨルドを船とバスト鉄道を乗り継いで約1週間かけて巡った去年春のあの旅から、もうすぐ1年が経ちます。


旅の様子は、このBlogでも「ネアカな北欧クルーたち」「ベルゲンの芸術的街並み」「大自然にパワーをもらう」「ラールダールトンネル」「フロム鉄道の旅」「首都オスロを再訪」の計6回に分けて現地から報告しました。途中立ち寄った港町オーレスンの北欧屈指といわれる美しい街並み〔写真〕なども、心に焼きついて忘れられません。

2008年夏には、SAS(スカンジナビア航空)が期間限定で成田からベルゲンへの直行便を就航させ、フィヨルドの旅がぐっと近くなりました。実際に成田/ベルゲン線を利用してノルウェーを旅してきたという人も多かったようです。

さて、そのSASのベルゲン直行便が、昨年の好評を受けて2009年も実現することになりました。今年は成田を7月4日、11日、18日と8月8日に出発する計4便で運航されます。コペンハーゲンを経由する従来ルートだと、ベルゲンへは乗り継ぎを含めて18時間ほどかかるのに対し、直行便ならフライト時間は約11時間。成田を11時40分に発ち、現地時間の15時台にベルゲンに到着します。

夏のスカンジナビアは日照時間が長く、夜でも明るいので、ホテルにチェックインしてから世界遺産の街ベルゲンをゆったり散策するのもいいですね。みなさんもベルゲン直行便で、この夏はぜひ中世にタイムスリップしてみてください。

S.Akimoto at 07:24|Permalink

2009年01月24日

世界遺産の運河で

 
南フランス・トゥールーズから帰国しました。今回は取材するテーマが多くて忙しかったものの、充実した旅だったと思います。この間、Blogも毎日更新しましたが、現地からは報告できなかった印象的な風景をもう一つだけアップしておきますね。


これまでも言ってきたように、私は運河のある街が大好きです。トゥールーズにも世界遺産に登録された運河があると聞いて、エアバス社での初日の取材を終えた夕方、カメラを持って出かけてみました。それが写真の「ミディ運河」です。

17世紀につくられたこの運河は、トゥールーズでガロンヌ川から分岐し、地中海に注ぎます。全長は240キロ。鉄道が発達する19世紀まで、大西洋と地中海との間で物資を運ぶための海運ルートとしてとても重要な役割を果たしました。河の両側は、当時の動力を持たない船舶を馬で引くための道が続き、現在はそこにプラタナスやポプラの木が4万5,000本も植えられた遊歩道になっています。

日没が近い時間帯だったせいか、対岸にジョギングをしている人を見かけたほかは、人影がありません。途中のベンチで少し休んでいたら、向こうから2匹の犬をつれたおばさんがやって来ました。おばさんは犬に引きずられて、私のほうに近づいて来ます。

「散歩ですか?」
「この子らにせがまれてね」と、先へ急ごうとする2匹の犬を引き止めておばさんは言います。「旅行者?」
「ええ、日本から。ここ、素敵な場所ですね」
「そんな身なりで──」と、おばさんは私の薄手のコートに目をやります。「寒くないのかい?」
「気持ちいいです。空気が澄んでいて。この運河、世界遺産なんですってね」
「世界遺産? ああ、そうみたいだね。こら、お前たち。ちょ、ちょっと!」と、おばさんは犬たちに引きずられてまた歩き始めました。「そいじゃ」

5メートルほど行ったところで私を振り返ると、おばさんは「いつまでもそんなとこに座ってると、風邪ひくよ」と言いました。気温はもう0度近いかも知れません。世界遺産についての地元の思いを取材してみようとチラッと考えたのですが、日々ここで暮らす人たちには、そんなことはあまり関係ないみたいですね(笑)。


S.Akimoto at 22:34|Permalink

2009年01月21日

世界最長の組立ライン

 
トゥールーズはエアバスの街です。昨日のBlogで紹介したガロンヌ川にかかる橋を渡って車で郊外へ向かうと、市内中心部から20分ほどでエアバス本社に到着。正面入口では、アジア担当の広報責任者、ショーン・リーさん〔写真右〕が私を出迎えてくれました。


中長距離用ワイドボディ機のスタンダードとなったA330やオール2階建て巨人機A380、さらに開発中の最新鋭機A350についてそれぞれプロダクトマーケティングの責任者に話を聞いたあと、リーさんにさっそく工場を案内してもらいます。

圧巻は、やはりA380の組み立てラインでした。世界の拠点や協力メーカーで製造された主要パーツがここに集まり、あの巨人機を完成させるのですから、その規模は想像を絶します。高さ46メートル、幅250メートル、そして長さは組み立てラインとしては世界最長の500メートル。目の前で、バスケットボールのコートがすっぽり入ってしまうほどの巨大な主翼の組み立て作業が続いています。リーさんはその燃料タンクを指さし「タンクに搭載可能な燃料は最大で31万リットルにもなるんですよ」と説明してくれました。

トゥールーズに集まってくるのは、パーツだけではありません。エアバス機をつくるために、世界中から何万という技術者たちがここに来ています。フランスの地方都市では若者たちがすぐに都会(パリ)に出たがる──そんな記事を以前何かで読みました。ですが、トゥールーズは心配ありません。街なかで出会う若者たちの数がどれほど多いことか。この街で学び、働き、そしてこの街から最新鋭の旅客機が世界に向けて飛び立っていくのです。

S.Akimoto at 14:56|Permalink

2008年11月30日

イージージェットでの旅

 
ヨーロッパ取材中に利用してみたLCCのもう1社が、英国のイージージェット〔写真〕です。ロンドンからオランダのアムステルダムへ飛びました。


1時間ちょっとのフライト中、客室乗務員たちは有料サービスである飲み物や軽食を販売しながら、ポリ袋を持って乗客からゴミを回収。その合間に、トイレ掃除などもせっせと済ませます。空港に到着後、乗降扉が開かれてまだ10分も経たないうちに機内には次のフライトの搭乗案内アナウンスが流れ、その20分後には新しい乗客を乗せて再び滑走路に向かっていきました。

私が支払った運賃は、税込みで片道約42ユーロ(約6,700円)。前回報告したライアンエアーと同様、この格安運賃を実現している秘密が、空港での滞在時間の短さです。クルーたちもいっしょになって機内清掃を手伝うことで運航する機材の回転率を高め、大手エアラインの2倍近い収益を上げることに成功しました。

エアライン業界には「顧客の上位2割が収益の80%を生み出す」というマーケットの構図があります。大手キャリアの間では、その2割の顧客を囲い込むための上級クラスのサービス向上合戦がヒートアップ。一方で、全収益の20%しか生み出さない残る8割の層をターゲットにしながら、徹底したコスト削減で十分に利益を出しているのが各国のLCCです。私がアメリカ国内の移動でよく利用するサウスウエスト航空では、機長までが掃除や荷物運びに駆り出されていました。

S.Akimoto at 12:19|Permalink

2008年11月27日

背もたれが倒れない!

 
今月初旬にロンドンへ取材で行ったついでに、話題のLCCにいくつか乗ってきました。その1社として選んだのが、欧州最大手のライアンエアー〔写真〕。「あの航空会社のシートは、背もたれを倒すことすらできないよ」と知り合いのドイツ人記者から教えられ、興味を持ったので。


利用したのはドイツ・フランクフルトからイギリス・ロンドンまでのフライトです。何人かの乗客のあとについて、駐機しているボーイング737-800の機内に乗り込むと、通路をはさんで3席ずつが並ぶ黄色を基調としたカラフルなシートが目に飛び込んできました。エコノミークラスだけのモノクラス設定で、全部で189席が設置されています。さて、本当にリクライニングできないのか? さっそく試してみました。

たしかに。ドイツ人記者の言っていたとおりです。シートのどこを探しても、背もたれを倒すためのレバーもボタンも見当たりません。周囲を見わたしてみると、リクライニングしようなんて考えているのはどうやら私だけのようでした。

けれども、意外に窮屈さは感じません。フライト中、ずっと真っすぐに背筋を伸ばして行儀よく乗っていなければならないのかと思ったら、そうでもないのです。シートの背もたれは、もともとある程度の角度を保った形で固定されていますので、予想していたほどは辛くありません。エコノミークラスなら普通かな、といった感じです。途中、通りかかった英国人の男性クルーと話したとき、彼は言っていました。

「リクライニング機能を外したことで、故障が減りました。シートの故障って、背もたれの可動部分がイカれるケースが多いんですよ。それを空港でいちいち直していたら、次の出発が遅れてしまいます」

なるほど。空港でのターンアラウンド時間を短くして機材の稼働率を高めることは、コスト削減のために重要な戦略です。じつはシートにはテーブルもついていません。テーブルの出し入れも故障の原因になる、彼らはそう考えているのでしょう。そこまで徹底していることも、むしろ感動すら覚えました。

S.Akimoto at 13:54|Permalink

2008年11月09日

信号無視する紳士たち

 
ロンドン市内をタクシーで移動していると、いつも感じるのが運転手たちのマナーの良さです。交通ルールをきちんと守り、運転もじつに穏やか。乗客に対しても気持ちいいくらいに礼儀正しい。さすが、紳士の国だなあ──と感心します。


反面、紳士のくせになぜ? と思うのが歩行者たち。大通りを渡るのに、彼らは平気で信号を無視していく〔写真〕。イギリスでもアメリカでも、信号は「衝突を避けるためのもの」と思っているフシが彼らにはあります。なので、車のいないところでは、人は信号に忠実である必要はない。いや、たとえ車が行き交っていても、ひょいと身をかわせば衝突を避けられるなら赤信号でも堂々と道路に入っていく。警官が立っている交差点でも、その警官に向かって石でも投げない限り、呼び止められることはありません。

もちろん、信号を無視するぶん、みんな車の動きをじつに注意深く観察しています。自分の安全に確信が持てるまでは、たとえ青信号でも渡りません。自分の安全は自分で守る──そんな考え方が徹底しているのでしょうね。

考えてみれば、車の通っていない道路で赤信号が青に変わるのをじっと待っているのは、ヨーロッパではドイツ人くらいのもの。私も海外では、信号ではなく通りを行き交う車ばかりを注視する習慣が身についてしまいました。ロンドンで、パリで、ニューヨークで、渋滞に苛ついている車の脇をスイスイすり抜けながら、大通りを横切っていく。一度始めてみると、これがじつに快適です。

前にちょっと考え事をしながら、同じように車の脇をすり抜けて横断していたら、警官に「ピピピー!」を笛を吹かれて呼び止められたことがあります。その笛の音で、我に返りました──あ、そうだった、もう日本に帰ってきてたんだ、と。しばらくロンドンにとっぷり浸かっていたので、帰国したら気をつけなければいけません。

S.Akimoto at 09:57|Permalink

2008年11月07日

宝物を探しに

 
ロンドンの街を歩いていると、リサイクル商品を並べた露店やアンティークショップなどがあちこちで目につきます。明らかに価値のありそうなビンテージものから、どう見ても売り物とは思えないガラクタまで。きっとある人にとってのガラクタが、別の人にとっては大切な宝物なのでしょう。そうじゃなければ、アンティークを扱う商売は成り立ちません。


そういう意味でいうと、ロンドンという街はすごく面白い。古い物に価値を見出して永く愛用するイギリス人気質が、ストリートマーケットをより魅力的なものに変えています。そんな中でも、いま若い世代を中心に人気を集めているのが、“イースト・ロンドン”と呼ばれるエリアです。

地下鉄リバプールストリート駅の周辺に広がるこの一帯は、もともとインドやバングラディッシュなど海外からの移住者が多く住む人種のるつぼで、あまり治安のいい地域とは言えませんでした。ところが近年は様子が一変。若いアーティストやデザイナーが家賃の安さに魅かれて移り住み、町工場の跡地や古い倉庫などがロフト風のアトリエやスタジオ、ショップに建て替えられました〔写真〕。

殺風景だった街の壁はアーティストたちの恰好のキャンバスに変わり、かつて青果市場だったレンガ造りの古い大きな建物は、週末に新進作家たちがアクセサリーや小物など自慢の作品を持ち寄る「スピタルフィールズマーケット」の会場になりました。

何か一つ、自分だけの小さな宝物を探しにいく──そんな目的のある人には、古くて新しい街、イーストロンドンがいま絶対におすすめです。

S.Akimoto at 16:11|Permalink

2008年11月06日

UNDERGROUND

 
日本を発つ前の先週末のBlogで、円が急騰して銀行の外貨両替窓口にドルやユーロを買う人たちが殺到している様子を報告しました。もちろんイギリスポンドに対しても、円はかなり上がっています。


いまから7、8年前にロンドンに来たときは、1ポンドは160円程度でした。しかしその後は、雨が降ろうが嵐が吹こうが円は下がり続け、去年のいまごろはなんと1ポンドは250円近くに! それが現在、再び160円程度に戻っています。

いまこうしてロンドンに滞在してポンドの価値を考えてみると、1ポンド=160くらいの現在のレートがじつは妥当なんじゃないかなと思います。日本の輸出産業にとっては大変でしょうが。ロンドンでは、たとえば地下鉄の初乗りが4ポンド。今年1月にこちらに来たときは、日本円に換算して1,000円にもなることを知り、信じられない気持ちでした。地下鉄の初乗りが1,000円、ですよ!

そのときの取材で同行した朝日新聞のロンドン特派員に「そんな高いんじゃ乗れないね」と話したら、彼に言われました。「ロンドンに来ていちいち物価を日本円に換算しちゃダメですよ。ガムも買えなくなります」

それはそうですが。でも円高になったお陰で、街なかのあちこちで見かける赤い輪っかの「UNDERGROUND」のマーク〔写真〕がとても身近に思えてきたのも事実。ロンドンの地下鉄は全部で12路線あって、各駅に置いてある地下鉄マップで目的地を探せば、わりと簡単にどこへでも行けて便利です。

その地下鉄に乗って、何か新しいロンドンをこれから探しにいってみようと思います。

S.Akimoto at 14:15|Permalink
Profile

秋本俊二(Shunji Akimoto)

作家/航空ジャーナリスト。東京都出身。学生時代に航空工学を専攻後、数回の海外生活を経て取材・文筆活動をスタート。世界の空を旅しながら各媒体にレポートやエッセイを発表するほか、テレビ・ラジオの解説者としても活動する。『飛行機はなぜ、空中衝突しないのか?』(KAWADE夢文庫)『羽田空港のひみつ』(PHP新書)『これだけは知りたい旅客機の疑問100』(SBクリエイティブ/サイエンスアイ新書)など著書多数。

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